戒名を自分でつけてしまう?


戒名を自分でつけてしまう?

自分で好きな名前をつける。自分の名前は親が決めたが、自分が死ぬときの名前くらい自分でつける。当然のことだ。戒名にも一定のルールはあるらしい。ルールに沿えば結局はお寺にお金も払うことになる。金持ちならこれもありだろう。応じる坊主は問題かもしれないがどうせ金まみれ。

ルール無視で好きな名前をつける。これも勝手だ。墓とか位牌とか好きなものに好きな文字を刻めばよい。既に所謂戒名ではないだろうが、戒名自身が俗世間的なものだから自分なりに信念があれば気にすることはない。

戒名

戒名とは何か?。現世での名前はあの世では使えない?。成仏した時の名前だって?。仏の名前を人間が勝手につける?。坊主が儲ける仕組みを考えただけだろう。最初はもっと本質的な意味があったはず。途中で堕落したに違いない。使う文字の種類や文字数は払う金に多さに寄って決まるらしいが、恥ずかしいことだ。

僧侶の決め事らしい。

戒名には費用が掛かる。

坊主は金額(戒名料?)を見て戒名を決める。

坊主社会の組織化の一環なのだろう。信長が滅ぼしても構わないと思った気持ちは理解できる。

使う文字に値段がついているのだろう。



この頃、戒名を自分で決めようとする人が居るらしい。立派なことだ。金の亡者にしか見えない坊主に頼まないで自分でやるのは偉い。本当?



昔なら?。エンディングノートなんて作ると坊主が黙っていなかっただろう。それらは彼らの仕事だ。今でも、信頼関係があれば、色々な相談を受けているはずだ。

人は死ねば誰でも成仏して仏門に入るが、生きているときから仏門に入るのが坊主の世界なんだろうか。坊主の行いを見れば仏門に入る意味が分かる?。結果は?。素晴らしい坊主も居ればそうでない坊主もいる。結局、只の人間なのだ。

本来檀家から預かったものを私物にして利殖に励むお寺の何と多いことか。

滅私奉公。これは坊主の世界と関係ないか?。でもひたすら仏のためにには違いないだろう。坊主に期待することと実態と乖離があれば檀家は離れる。ますます算術に走る。悪循環。

檀家制度は崩壊している。



どうでもいいこと。俗世間の自己満足だ。そもそも戒名なんて余計なお世話だ。自分の名前で良いじゃないか。本名が気に入らなければ好きな名前を自分で決めて使えばよい。

自分史の書き方?最後は自分流?


自分史の書き方?最後は自分流?

自分史の書き方

自分史

世の中にはいろいろな教本があるでしょう。自分の気にいったものを参考にすればいいし、何回か書き直すことを考えていいでしょう。



子供の日記から始めましょう。

強く印象に残る「いつ、どこ、なに」をひたすら時系列に並べていく。記憶は日々失われています。コンセプト的なことをなんだかんだ考えている内に脳内から揮発してしまいます。非公開ブログにスマホでもタブレットでも使って片っ端から記録していきましょう。墓場まで持って行きたいことは一先ず文字にはしておくのか最初から飲み込むのかはあります。大事なことであればスキップすると前後がつながらなくなります。還暦過ぎると記憶も徐々に断片的なものになりますから、非公開は要件としても出来るだけ文字にしておきましょう。



ゴールを決める。

純粋に自分のけじめとして記録を残す。

印刷製本して限られた人たち、家族、親せき、友人に配り見てもらう。家の歴史として残す。

私小説にして出版し社会的共感を訴える。時代の証言。



毎年書き直す自分史

自己形成の観点から自分史を捉える手法。大事な決断をするとき、自分の価値観をより客観的に理解するために、あるいは正しく理解してもらうために、定期的に振り返りながら記述する。

何を考えどのように行動したかという事実は変えることはできない。

しかし、それをどのように評価するかは、時々の価値観で変わってくる。ハムレットさんなら毎回変わるだろう。是非は分からないものだ。とは言え、今の自分を捕らえなおすツールとしては貴重なものになるだろう。

就職・転職を意識するようになったら自分史を作成・更新してみよう。



自分史に関するいろいろなサイトを見ていると、資料集め・年表作りを手順に入れるものが多いが、それこそが自分史を書く(作る?)ときの障害になっている。目線が印刷出版を請け負う業者の視点で見るからだろう。実際には資料は中途半端なものばかり。既に処分されてしまったものばかりだ。

だから、

ここでは敢えて、記憶以外は何も要らないと言いましょう。

記憶を文字にして時系列に並べれば十分です。抜けていた記憶も徐々に埋まっていくはずです。思い出に残る品々は手元に残っていなくても文字で形容すれば十分です。



自分史は終活の一環をなすものとして捕らえる一方、若い世代の就活(就職・転職)の一環をなすものとしての側面も持つ。

完成された正解は存在しない。

一人一人の生き方に正解がないのと同じように一人一人の固有のものとして作り込まれて行く。

何もない無事の年でも年1回、何か大きな出来事があればその都度、日常的に見直すものだ。

30

365

人気の投稿